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2009年04月 アーカイブ

2009年04月08日

河島英五

河島 英五(かわしま えいご、1952年4月23日 - 2001年4月16日)は日本のシンガーソングライター、俳優。大阪府東大阪市出身。長女・河島あみるは歌手・タレント、次女・河島亜奈睦(アナム&マキ)、長男・翔馬も歌手。

大阪府立花園高等学校卒。京都府京都市を拠点に活動。晩年は大阪府四條畷市に在住していた。長女・河島あみるの結婚式に参列後の2001年4月16日、肝臓疾患のため急逝した。

1970年代に河島英五とホモ・サピエンスを結成して、京都レコードからデビュー。グループ解散後ソロ活動開始
代表曲は「酒と泪と男と女」。この歌は萩原健一がカバーし、テレビの歌番組等で歌っていたが、同じ頃、河島の歌唱版が京都・伏見の清酒メーカー・黄桜酒造(現:黄桜)のCMソングとして使われるようになると全国的なヒットとなり、河島自身も全国的に名が知られるようになった。
その他の代表曲は「野風増」(橋幸夫らとの競作)、「時代おくれ」、「生きてりゃいいさ」(加藤登紀子に書き下ろした楽曲で、のちに河島もシングル発売)など。「時代おくれ」は、現在も多くのおやじ世代にカラオケで歌われており、松本人志、朝青龍や山本浩二、久保竜彦らも愛唱歌としている。また、“ランバダ”がダンスナンバーとして日本で流行する以前に『花の種』というアンデスを舞台にした哀調の日本語ナンバーに仕上げてレパートリーとしていた。
コンサート活動では、大都市だけでなく山間部や僻地でも行い、音楽を通じてファンと交流することに主眼を置いた。
1980年代、ケニヤの首都ナイロビにある「グリーンバー」という酒場のジュークボックスには「酒と泪と男と女」のレコードがあり、日本人客が来ると現地の娼婦などがよくかけてくれた。当時、旅行者の間では、河島がグリーンバーに立ち寄った際、「俺は日本の歌手だ」と言っても誰も信じてくれなかったために自分のレコードを置いていった、という逸話がある。
阪神・淡路大震災の被災者を励ますために、友人の桂南光らと毎年神戸でチャリティコンサート「復興の詩」を開いていた。死去した年のコンサートでは、河島の3人の子供たちと桂南光が、遺作『旧友再会』を観客と共に歌った。
告別式終了後の出棺の際、棺の上に遺影が置かれ、参列者から「英五」の連呼が起こった。自身のヒット曲「野風増」の歌詞には、息子が20歳になれば2人で酒を酌み交わしたいという内容があったが、皮肉にも河島本人は歌詞通りに息子・翔馬と杯を交わすことは叶わなかった。

アルバム [編集]
人類(1975年)
運命(1976年)
信望(1977年)
ライブてんびんばかり(1977年)
仁醒(1978年)
河島英五作品集(いくつかの場面)(1979年)
EIGO SPECIAL(1979年)
ホモサピエンス門外不出(1979年)
文明 I(1980年)
文明 II(1980年)
文明 III(1980年)
トップシングルコレクション(1983年)
河島英五 の世界(1984年)
発汗(1985年)
時代おくれ(1986年)
ベスト・セレクション(1986年)
ろまんちすと(1987年)
河島英五1975?1986(1987年)
「文明」ベスト&名作集(1987年)
季節(1988年)
河島英五 SCENE OF38(1989年)
河島英五 アコースティックベストセレクション(1992年)
ほろ酔いで(1993年)
自選集(1993年)
ボーカル&カラオケ・ベスト5(1994年)
自選集II〜カヌーにのって(1995年)
大全集Vol.1〜ホモサピエンス(1997年)
大全集Vol.2〜酒と泪と男と女(1997年)
全曲集’98(1997年)
ベスト・コレクション(1997年)
大全集Vol.3〜心から心へ(1998年)
コレクション 酒と泪と男と女(キングCD文庫)(1999年)
河島英五 ベスト撰集(2000年)
河島英五 LASTLIVE〜今日は本当にありがとう(2001年)
DREAM PRICE 1000 河島英五(2001年)
酒と泪と男と女 メモリアル(2002年)
GOLDEN☆BEST 河島英五 SINGLES(2002年)
河島英五 History 〜天夢〜(2003年)

俳優としての活動 [編集]
NHK銀河テレビ小説『まんが道』で、トキワ荘グループ・新漫画党リーダーである二代目寺田ヒロオ役を演じた。
NHK連続テレビ小説『ぴあの』
NHK連続テレビ小説『ふたりっ子』に伊原剛志演じる“マサ兄ィ”の兄貴分である「占いのできる神秘的なマスター」役で出演した。
NHK子どもパビリオン『ちりめんじゃこの詩』
中学生対象の教育映画『まじめで悪いか!』に出演、中学校(新潟県長岡市立南中学校)の教師役を好演した(原作:高橋 一『梅雨明け』。「生きてりゃいいさ」が挿入歌として使われた)
トラブルマン笑うと殺すゾ!(初主演映画)
他、ゲスト(友情)出演、レポーター等多数

ピンク バター 天使ノタ マルチ 華の段 メロン カーリング ゲットー バイオガス ハンカチ ハンドマ チューリン バナナ レパシー サープラ ロザリ キンリー ウエス シェリフ アンソ チェロ さらくやし ピーエル ギング モノキ トリポ ラップカ ハイデ 枸橘 高麗人参 リベラル ワイル ブレーキ ちょうせき トレーダー カモミー アージュ リム いっきく おのえ フィナーレ ゴニウム ノギス ソフト スポイル マベパール ラクトース きわの マフィン ングイン

2009年04月25日

オーストリアから見た経緯

カールが皇帝に即位した時の神聖ローマ帝国(つまりドイツ)は、時折りしも、宗教改革の嵐が吹き荒れている最中であった。元々カール自身は熱心なカトリックであったが「神聖ローマ皇帝」という存在自体が 「カトリックの守護者」という大前提の元に成り立っていた。つまりローマ教皇はカトリックを守護することを前提としてドイツ王に帝冠を与えるという側面を持っていたわけである。

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こうしてスペイン国王についで神聖ローマ皇帝の座を射止め、自信に満ち溢れていたカールは、皇帝たる自身の声によって直接説得を行う事によって、宗教改革を終息へ向かわせる事が可能だと考えていた。マルティン・ルター自身を帝国議会に招集し、自らの説得を行ったカールだったが、しかしルターは自らの信条を翻そうとはしなかった。結果、カールは彼を異端と宣言し、彼から法の保護を剥奪し、ルター派の活動は絶対に認めないとの立場を明確にした。身の危険が迫ったルターはザクセン公の庇護下に入るが、これが長く続く神聖ローマ皇帝とルター派諸侯の対立の始まりであった。彼らルター派諸侯はフランス国王フランソワ1世の援助を受け、カール包囲網の一翼に組み込まれていく。

ところが、オスマン軍がバルカン半島への侵攻の度合いを強めると、皇帝カールは前言を撤回し、ルター派の活動を容認する立場に転化した。もちろんこれは国内の対立を一時凍結して、オスマンの侵攻への防御に全力を傾けるための方策であり、また詭弁に近かった。実際カールはオスマンがウィーンから撤退をはじめるとすぐさまこの発言を撤回している。

オスマン帝国から見た経緯
スレイマン1世率いるオスマン帝国は、その絶頂期を迎えており、東ローマ帝国陥落によって手に入れた、バルカン半島南部に続いてさらに北上し、ハンガリー、ルーマニアの獲得を狙っていた。すでにオスマン軍はベオグラードを陥落させ、ロードス島の聖ヨハネ騎士団を打ち破っていた。また1526年にはモハッチの戦いでラヨシュ2世率いるハンガリー王国軍を壊滅させ、ラヨシュを戦死させている。

これによってハンガリーは首都であるブダを放棄せざるを得なくなり、現在のスロバキアの首都である、ブラチスラバに都を移した。又国王の戦死により以降のハンガリー王はハプスブルク家によって務められることになった。対立王であるトランシルヴァニア侯はオスマン帝国に通じてハプスブルク家を追い出そうとし、オーストリアにとっては非常に危険な事態となった。

さらにフランソワ1世とスレイマン1世が同盟を結ぶと、すぐ背後に迫っているオスマン軍がフランスの意を受けて、オーストリアの首都であるウィーンを直接狙う事は、火を見るより明らかであった。

ウィーン包囲失敗の原因
オスマン軍の補給線が延びきっており、補給がうまくいかなかった事。
すでに寒さが厳しくなってきている9月から10月の出来事で、寒さに慣れていないオスマン兵では包囲戦がうまくいかなかった事。
ウィーンがオスマン軍の最到達線である事。

ウィーン包囲は失敗に終わったものの、ハンガリー王も兼ねる事になったハプスブルク家にとって直ぐに反攻しハンガリー領を奪い返すことは出来なかった。ハンガリーが元の領土を復活させるのは1683年の第二次ウィーン包囲に失敗したのち、オーストリア軍、ハンガリー軍、ポーランド軍などが反攻し、オスマン軍を打ち破った後の1699年、カルロヴィッツ条約の成立を待たなければならなかった。

オスマン帝国はその後も攻勢を続け、カールは1538年のプレヴェザの海戦でオスマン海軍に敗退し、ヨーロッパ世界は地中海の制海権を失ってしまう。

何よりもオスマンの脅威をヨーロッパ世界に対して広く植え付けた事は大きい。オスマン帝国による二度にわたるウィーン包囲は、国力・政治力の差が結果の違いに表れた。第一次包囲戦ではハプスブルク家の抵抗により長引いた包囲戦に加え、冬将軍が到来していた。オスマン帝国スルタン・スレイマン大帝は、撤退を厳命し、粛々と去っていった。しかし第二次包囲戦では、オスマン帝国大宰相の勇み足と、無謀さが災いし、ヨーロッパ諸国の参戦を招き、帝国の衰退をもたらした。第一次包囲戦は、戦略的にオスマン帝国の勝利をもたらし、スレイマン大帝によるオスマンの世紀を紡ぎ出したのである。

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